新聞?dòng)浾邥r(shí)代に子育てとキャリアの両立に悩み、2009年から6歳の子どもを連れて中國(guó)へ親子留學(xué)したという経済ジャーナリストの浦上早苗さん。

經(jīng)濟(jì)記者浦上早苗在職業(yè)生涯中曾為平衡育兒和事業(yè)而煩惱,2009年,她帶著6歲的孩子赴中國(guó)進(jìn)行親子留學(xué)。

當(dāng)初は中國(guó)特有の距離の近さや大膽さに驚いたものの、おおらかな子育て環(huán)境に救われたといいます。

她最初對(duì)中國(guó)特有的親密和大膽感到驚訝,但最終她被中國(guó)寬松的育兒環(huán)境所救助。

【寫(xiě)真】留學(xué)生の仲間たちと。寫(xiě)真中央=浦上さん、寫(xiě)真左下=息子のソウくん

【照片】與留學(xué)生朋友們合影。照片中央為浦上,左下為她的兒子Sou君。

いつの間にか、母親としてあるべき姿という固定概念を手放し、気持ちにゆとりが生まれてきたという浦上さん。

浦上表示,她不知不覺(jué)中放下了作為母親該有的固有觀念,心態(tài)變得更加寬松。

浦上さんが中國(guó)への親子留學(xué)で気づいた、日中で違う「子育てとの向き合い方」についてお話を聞きました。

浦上分享了她在中國(guó)親子留學(xué)期間,關(guān)于日中兩國(guó)在育兒方式上的差異。
(取材?文/大洞靜枝)
(采訪/文/大洞靜枝)

周りに合わせすぎないことが大切
——中國(guó)に行ったことで、女性が家事や育児を擔(dān)わないとといけないという価値観からは解放されたのでしょうか?

——在中國(guó)生活后,您是否從“女性必須承擔(dān)家務(wù)和育兒”這種價(jià)值觀中解脫出來(lái)了呢?

中國(guó)の女性は、「私、受験勉強(qiáng)しかしてないからそんなことできない」と堂々と言います。感覚的には日本の男性のような感じです。

中國(guó)女性會(huì)堂而皇之地說(shuō),“我只做了考試復(fù)習(xí),做那些事情可做不到?!彼齻兊母杏X(jué)有點(diǎn)像日本的男性。
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家事を習(xí)うタイミングもないので、できなくても特に何も言われません。日本の女性は家事や子育てを一生懸命やらないと、「ダメな母親だ」と言われてしまうので、大変過(guò)ぎるなと感じます。

因?yàn)闆](méi)有學(xué)做家務(wù)的時(shí)機(jī),所以即使做不好也不會(huì)有人特別說(shuō)什么。而日本女性如果不盡力做家務(wù)和育兒,就會(huì)被批評(píng)為“糟糕的母親”,她覺(jué)得這種狀況非常困難。
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日本のお母さんは、自分で何でも引き受けて、世の中の聲に合わせようとするから苦しいのかなと思います。最近だと仕事でも自己実現(xiàn)を目指すから、どれも手が回らずに詰んでしまうんですよね。

她認(rèn)為,日本的母親總是自己承擔(dān)一切,想要順應(yīng)社會(huì)的聲音,這可能讓她們感到很辛苦。最近,由于工作上也追求自我實(shí)現(xiàn),很多事情都做不到,最終陷入困境。

本當(dāng)は周りに合わせ過(guò)ぎるのではなく、自分が楽になることの方が大事で、夫と子どもが「いいよ」って言ってくれればそれでいいのだと思います。

她認(rèn)為,真正重要的不是過(guò)度迎合他人,而是讓自己變得輕松,如果丈夫和孩子說(shuō)“沒(méi)關(guān)系”,那就足夠了。

――地域のスポーツ活動(dòng)や部活では、親のボランティアがないと成り立たないところが多いですが、必要ではないこともルール化されたり、親の過(guò)剰な働きが求められることに疑問(wèn)に感じている方が多いと思います。

——在一些社區(qū)體育活動(dòng)或社團(tuán)活動(dòng)中,很多都需要家長(zhǎng)志愿者參與,但有些不必要的事情卻被規(guī)則化了,家長(zhǎng)的過(guò)度參與被要求,很多人對(duì)此感到質(zhì)疑。

ルールが多すぎて、本質(zhì)的ではないことまでやらなければいけない雰囲気がありますよね。特に子育ての場(chǎng)では同調(diào)圧力がとても強(qiáng)いと感じます。本來(lái)はやりたい人がやればいいことなのに、それがルールとなって「これが普通」となってしまう。

她覺(jué)得規(guī)則太多,有些事情并沒(méi)有必要做,但總是有一種必須去做的氛圍。尤其在育兒的場(chǎng)所,同調(diào)壓力非常強(qiáng)烈,本來(lái)是想做的人去做就好,結(jié)果卻成了規(guī)則,變成了“這就是正常的”。
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中國(guó)ではそれがほとんどなくて、必要なことだけをやればいいし、やりたくないことや不必要だと思うことについては「やらない」と言える文化があります。 日本でも、堂々と「やらない」と言える社會(huì)になれば、楽なのになと思います。

而在中國(guó),幾乎沒(méi)有這種情況,大家只需要做必要的事情,對(duì)于不想做或者認(rèn)為不必要的事情,可以大膽說(shuō)“不做”。她希望日本也能成為一個(gè)能夠堂堂正正地說(shuō)“不做”的社會(huì),那樣就會(huì)輕松很多。

ときに子育てにはおせっかいも必要
——著書(shū)の中で、バスでおばあちゃんが子どもに「おいでおいで」と呼びかけて、座席を半分ずつ分け合って座ったという微笑ましいエピソードもありました。良い意味で、おせっかいな方も多いのでしょうか?

——在您的書(shū)中提到,有一個(gè)溫馨的故事,一位老太太在公交車(chē)上對(duì)孩子說(shuō)“來(lái),來(lái)”,然后和孩子一起分座位坐下。您覺(jué)得在中國(guó),是否有很多好心的“多管閑事”的人呢?

中國(guó)は子どもにすごく厚著をさせる文化なので、少しでも薄著で外に出ていると、「風(fēng)邪をひくから、もっと厚著をさせなさい」と他人に言われます。息子が裸足で歩いている時(shí)も、「靴下を履かせなさい」と見(jiàn)知らぬおばあちゃんに注意されました。他人との距離感が近いんですよね。

中國(guó)有一種文化,孩子總是被穿得很厚重,只要穿得稍微薄一點(diǎn),外面的人就會(huì)說(shuō):“會(huì)感冒的,給孩子多穿點(diǎn)。”我兒子赤腳走路時(shí),陌生的老太太也會(huì)提醒我:“給他穿上襪子”。人們和他人的距離感非常近。

息子が自分で靴ひもを結(jié)んでいる時(shí)は、「中國(guó)の子どもは甘やかされているから、自分で靴ひもを結(jié)べる子がいないのよ」とか、「日本の子どもは自立してるね」 と言われたこともありました。思ったことをズバズバと言いますね。

當(dāng)我兒子自己系鞋帶時(shí),有人曾說(shuō):“中國(guó)的孩子被寵壞了,自己系鞋帶的孩子很少”,“日本的孩子更獨(dú)立”。他們說(shuō)話直截了當(dāng)。

日本では、個(gè)人のパーソナルな領(lǐng)域をとても大切にしますよね。でも、その影響で、子育て中の母親が孤獨(dú)になりがちな側(cè)面もあります。もうちょっと気軽におせっかいをしようよ、と思います。母親の方からはなかなか話しかけづらいけれど、誰(shuí)かが靴ひものことなどで気軽に話しかけてくれたら、嬉しいのではないでしょうか。

在日本,個(gè)人隱私被非常重視。但正因?yàn)槿绱?,育兒中的母親往往會(huì)感到孤獨(dú)。我覺(jué)得應(yīng)該更輕松地進(jìn)行一些“多管閑事”。母親們通常不好主動(dòng)開(kāi)口,如果有人能在像系鞋帶這樣的事情上輕松地跟她們打個(gè)招呼,她們應(yīng)該會(huì)很高興吧。

子育ては基本的に自己解決できるものだけど、人に聞いたほうが早かったり、誰(shuí)かに手伝ってもらう方が圧倒的に効率的だったりということが多いですよね。本當(dāng)にちょっとしたことなんです。気軽なコミュニケーションの先に、「ちょっとしたことを聞ける」存在がいると、とても安心できると思います。

育兒本質(zhì)上是可以自己解決的,但往往問(wèn)別人會(huì)更快,得到別人幫助的效率也遠(yuǎn)高于自己解決。很多時(shí)候只是一點(diǎn)小事。輕松的交流能讓你找到一個(gè)可以隨時(shí)詢(xún)問(wèn)的小問(wèn)題的對(duì)象,這會(huì)讓人感到非常安心。

我慢することは美徳ではない
——日本のお母さんたちは、いまだに浦上さんのような新しい視點(diǎn)を手に入れることができずに、悩みながら育児をしている人が多いのではないかと思います。中國(guó)にはあって、日本の子育て環(huán)境にないものは何でしょうか?

——我認(rèn)為,日本的媽媽們,很多人仍然無(wú)法像浦上女士那樣獲得新的視角,仍在為育兒煩惱。中國(guó)有而日本育兒環(huán)境沒(méi)有的東西是什么呢?

子育てでも仕事でも、心が折れてしまう時(shí)って、すべてが自分に降りかかってくるときではないでしょうか。小さな問(wèn)題でも、自分で解決しなければいけないことが積み重なると本當(dāng)に疲れます。特に子育ては、スケジューリングをしても思い通りにいかないことの方が多くて、お母さんたちはすごくストレスを抱えていると思います。

無(wú)論是育兒還是工作,當(dāng)所有的事情都?jí)涸谧约荷砩系臅r(shí)候,內(nèi)心都會(huì)感到崩潰。即便是小問(wèn)題,如果積累起來(lái)需要自己解決,也會(huì)讓人非常疲憊。尤其是育兒,盡管進(jìn)行了規(guī)劃,但更多的時(shí)候事情并不會(huì)按預(yù)期進(jìn)行,媽媽們承受著很大的壓力。
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中國(guó)ではみんなが働かないといけないし、未婚の人も、いつか自分ごとになるという前提があるから、比較的協(xié)力を得やすいのだと思います。また、自分の権利を主張するのが當(dāng)たり前で、空気を読まなくていいところがあります。我慢していると損をすると思っているからです。大変だと思ったら、素直に「大変だ」と聲を上げます。

在中國(guó),每個(gè)人都需要工作,未婚的人也會(huì)有“終有一天會(huì)成為自己的責(zé)任”的前提,所以大家更容易獲得幫助。而且在中國(guó),主張自己的權(quán)利是很正常的,有些地方不需要太在意“氣氛”。因?yàn)槿藗冋J(rèn)為,忍耐只會(huì)吃虧。如果覺(jué)得很困難,就會(huì)坦率地說(shuō):“很難”。

日本では我慢することや耐えることが美徳とされています。助けを求めることが「かっこ悪い」と思われがちですが、この考えは変えた方がいいと思います。不要なタスクを増やすのもやめて、本當(dāng)に必要なことだけをする。そして、気軽に調(diào)整したり、聲をかけ合ったりできる環(huán)境があれば、精神的にも物理的にも、子育てはもっと楽になるはずです。

在日本,忍耐和承受被視為美德。尋求幫助往往會(huì)被認(rèn)為“很不酷”,但我認(rèn)為這種觀念應(yīng)該改變。不要增加不必要的任務(wù),只做真正需要的事情。而且,如果能有一個(gè)輕松調(diào)整、互相幫助的環(huán)境,無(wú)論是在心理上還是在物理上,育兒都會(huì)變得更加輕松。